稚内市樺太記念館2025年08月08日

 2025年夏、稚内市樺太記念館を見学しました。フェリーターミナルや道の駅からも近いので便利です。この記念館は樺太(サハリン)40年の歩みと稚内とのつながりを紹介しています。日露戦争後、日本軍はサハリン全島を占領し、日本は樺太民政署を開設しました。ポーツマス条約で北緯50度以南の南樺太が日本領となり、1907年、樺太の豊原(ユジノサハリンスク)に樺太庁が設けられました(1946年廃止)。樺太は石炭の島となり、パルプ工場が多くつくられ鉱工業のまちとして発展します。1923年には稚内と樺太の大泊(コルサコフ)を結ぶ稚泊航路が開設されました。
 1945年8月9日、ソ連の侵攻で住民島外避難が始まります。1949年の調査では、稚内への引揚者5494人のうち樺太からの引揚者は4961人で、人口3万人をこえこの年に市制が敷かれたそうです。南樺太の町・敷香=しすか(ポロナイスク)生まれ、戦後活躍した横綱の大鵬(当時5歳)は、母と小笠原丸に乗船し小樽をめざしましたが、母が船酔いで急遽稚内で親子は下船します。そのあと小笠原丸は増毛沖(または留萌沖)でソ連の潜水艦に沈められました。

稚内市樺太記念館①

稚内市樺太記念館②






北鎮記念館(旭川市)2025年08月11日

北鎮記念館(旭川市)
2025年8月11日に旭川にある陸上自衛隊の北鎮記念館を見学しました。旭川は戦前、陸軍第七師団が置かれた軍都でした。元々屯田兵村から発展したところで、第2代北海道長官で第七師団長でもあった永山武四郎の功績を同館は偉人として称えています。師団司令部に勤務していた黒川幸夫氏は、終戦時、機密文書だった「師団歴史」を米国によるGHQの検閲を逃れ、自宅に持ち帰り保管していたので、1869年の開拓使設置時代から1945年まで重要事項が残されました。         
 旧陸軍第七師団と大東亜戦争の歴史、加藤隼戦闘隊を郷土の英雄として紹介し、先人の労苦と防人としての誇り、自衛隊の歴史を自衛官のガイドが説明しています。入口のショップはミリタリーグッズを販売しています。希望すれば38式歩兵銃を触る体験も可能です。自衛隊の広報宣伝を見据えた記念館なので、この記念館は、平和博物館ではなく、戦争を肯定し自国の軍隊を宣伝する軍事博物館の性格に近いと思いました。
 各地にある自衛隊の資料館、記念館は、アジア・大平洋戦争と捉えず、。戦前の閣議決定の文言を敢えて使って大東亜戦争と説明しています。大東亜戦争と表記する自衛隊は戦後の歴史学研究、文科省の学校教育カリキュラムを否定してるわけです。帝国陸軍の侵略戦を肯定し継承しようとする主張に他なりません。自衛隊は、大日本帝国憲法下での陸海軍と決別し日本国憲法のもとで存在している組織ですので、敗戦で310万の戦没者を生み出した帝国政府・旧日本軍の行為を反省して組織化されていなければなりません。歴史学の知見を軽んじ非科学的、非実証的な自衛隊の、このようは運営が心配になりました。20251004記

笹の墓標強制労働博物館(北海道・幌加内町)2025年08月21日

 北海道・幌加内町にある「笹の墓標強制労働博物館」を訪ねました。日本最大の人工湖・朱鞠内湖は、王子製紙の下請けであった雨竜電力の雨竜第一ダム工事、飛島組の名雨線鉄道建設によってできました。戦争末期、北海道にはダム工事、鉄道建設などで日本人タコ部屋労働者の他、1939年からは朝鮮人約15万人、1942年からは中国人約1万5千人が動員されました。 
 しかし強制労働の歴史や犠牲者の実態は明らかではありませんでした。浄土真宗住職の殿平善彦さんと友人の宮川恵秀さんは、光顕寺で偶然であった多くの位牌から、強制労働の事実を知り、1976年に殿平さんらは「空知の民衆史を語る会(空知民衆史講座)」、宮川さんは「幌加内の歴史を語る会」を結成、強制労働による犠牲者の遺骨発掘と遺族への返還運動を行います。発掘された遺骨は光顕寺で弔われました。1995年お寺は笹の墓標展示館となりましたが、2020年雪で倒壊、翌年失火で完全消滅。しかし多くの市民の願いから昨年再建されました。遺骨発掘は日韓共同ワークショップとして続けられ、国境を越えた市民の取り組みとなり、現在は東アジア共同ワークショップに発展して日中韓の交流が広がっています。20250830記