岡山空襲展示室(岡山シティミュージアム5階) 旧南方国民学校の焼け焦げた赤れんが塀 ― 2021年12月28日
高松からの帰りに岡山駅で途中下車。岡山空襲展示室(岡山シティミュージアム5階)を見学しました(無料)。岡山市は1945年6月29日(午前2時から4時頃迄)、B29爆撃機138機による9万5000発の焼夷弾爆撃で、1737人以上が亡くなり市街地の63%が焼失しました。戦後、空襲被害の実態調査は「空襲・戦災を記録する会」や戦跡保存運動、体験記録作成に関わった各地の市民が行ってきました。
岡山空襲展示室の展示資料の多くは「同会」の工藤洋三さん、「八王子空襲を記録する会」の研究者・奥住喜重さん、岡山空襲資料センターを開設された空襲体験者の日笠俊男さんらの、第一次史料の調査に基づく研究や、市民が残した当時の写真によるものです。市民の平和への思いがミュージアム展示に表れていると思いました。学芸員の方のお話では、岡山空襲展示室は行政部局の管轄だそうです。平和ガイドはおられませんでした。
岡山駅から歩いていける戦跡も探しました。旧南方国民学校の焼け焦げた赤れんが塀です。写真を撮っていると、犬を連れたおじさんが、「れんが塀は小学校周囲全部あった」と教えてくれました。その方は岡山空襲の体験者でした。20211228記
岡山空襲展示室の展示資料の多くは「同会」の工藤洋三さん、「八王子空襲を記録する会」の研究者・奥住喜重さん、岡山空襲資料センターを開設された空襲体験者の日笠俊男さんらの、第一次史料の調査に基づく研究や、市民が残した当時の写真によるものです。市民の平和への思いがミュージアム展示に表れていると思いました。学芸員の方のお話では、岡山空襲展示室は行政部局の管轄だそうです。平和ガイドはおられませんでした。
岡山駅から歩いていける戦跡も探しました。旧南方国民学校の焼け焦げた赤れんが塀です。写真を撮っていると、犬を連れたおじさんが、「れんが塀は小学校周囲全部あった」と教えてくれました。その方は岡山空襲の体験者でした。20211228記
高松市平和記念館 旅順模擬要塞跡 ― 2021年12月16日
11月下旬、高松市と岡山市の平和博物館と戦跡を探訪してきました。高松市は1945年7月20日、B29爆撃機116機による空襲をうけ、市街地の80%を失い、1359人の死者を出しています。松島町にある高松市平和記念館までは、うどんを食べた後、まちなかループバスを利用。車窓から高松のまちを眺めながらのゆっくり旅。記念館のお話では、市内小学校4年生が平和学習でくるそうです。
高松市内には西方寺の裏山に「旅順模擬要塞跡」があります。日露戦争の旅順攻防戦で4072名の犠牲者をだした善通寺第11師団の戦死者を追悼するために、明治43年、地元篤志家が要塞跡を再現して建造しました。煉瓦遺構は草木でおおわれており、模擬要塞完成当時の姿を留めていませんでした。途中見える瀬戸内海の景色に癒やされました。20211216記




旧陸軍第16師団 ― 2021年12月01日
立命館大学国際平和ミュージアムのボランティアガイドで活動している「平和友の会」の伏見深草戦跡学習ツアーに参加しました。京阪墨染駅から、京都教育大学周辺の戦跡を見学。「戦争遺跡に平和を学ぶ京都の会」会長のOさん、ガイド仲間で同会長も経験され京都の戦跡保存運動に尽力されてきたAさんの案内で、市民の不断の努力による保存運動の歴史を知ることが出来ました。
今回予定外だったのが旧陸軍の偕行社(陸軍将校の親睦団体)跡の見学です。聖母女学院(旧第16師団司令部)に隣接するヌヴェール愛徳修道会は、旧陸軍の偕行社跡にあります。突然訪れたにも拘わらず、親切なシスターさんたちのとりなしで、内部を見学することができました。吹き替えではずされた屋根瓦には陸軍の星印がありました。学習室や祈りの場など修道会の生活も少し知ることが出来ました。充実した見学になりました。20211201記



浜松復興記念館 ― 2021年11月27日
静岡からの帰りに目指した第五福竜丸関係の展示コーナーがある焼津市歴史民俗資料館は臨時休館でがっかり。仕方ないのでマグロ延縄漁船の基地・焼津港と焼津漁業資料館にたちよってから、浜松空襲の痕跡を探しました。浜松市は1944年12月13日から1945年8月1日までに27回の空襲をうけています。特に浜松大空襲(1945年6月18日)は、死者3349名、市内焼失率88%という大被害でした。浜松医学校跡地にある浜松復興記念館に浜松空襲の展示コーナーが設けられています。火災を免れた浜松銀行協会の建物が、なんと木下恵介記念館となっていました。20211127記



静岡平和資料センタ- ― 2021年10月31日
静岡空襲の戦争の痕跡を探訪してきました。静岡市は1945年6月20日、123機のB29による爆撃を受けています(静岡空襲)。米軍は安倍川に避難した市民にも、容赦なく焼夷弾攻撃を続けたので、川に油脂が流れ引火して多くの人が亡くなりました(1958年に供養祭として「安倍川の花火大会」が始まる)。米軍は、爆撃中心点から半径1.2キロに照準を合わせて空爆することで市街地を壊滅させました(死者1766名、負傷者6654名。市街地の66%が焼失)、また全国180の都市を空襲する計画でした。静岡は15番目のターゲットです。
まず駅近くにある「静岡平和資料センタ-」で話を伺ったあと、かろうじて残った建物など戦跡を探しました。写真(中)は爆撃中心点となった場所にある静岡銀行、日赤病院前に残る「クスノキ」です。歩き疲れました。
20211031記




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