笹の墓標強制労働博物館(北海道・幌加内町)2025年08月21日

 北海道・幌加内町にある「笹の墓標強制労働博物館」を訪ねました。日本最大の人工湖・朱鞠内湖は、王子製紙の下請けであった雨竜電力の雨竜第一ダム工事、飛島組の名雨線鉄道建設によってできました。戦争末期、北海道にはダム工事、鉄道建設などで日本人タコ部屋労働者の他、1939年からは朝鮮人約15万人、1942年からは中国人約1万5千人が動員されました。 
 しかし強制労働の歴史や犠牲者の実態は明らかではありませんでした。浄土真宗住職の殿平善彦さんと友人の宮川恵秀さんは、光顕寺で偶然であった多くの位牌から、強制労働の事実を知り、1976年に殿平さんらは「空知の民衆史を語る会(空知民衆史講座)」、宮川さんは「幌加内の歴史を語る会」を結成、強制労働による犠牲者の遺骨発掘と遺族への返還運動を行います。発掘された遺骨は光顕寺で弔われました。1995年お寺は笹の墓標展示館となりましたが、2020年雪で倒壊、翌年失火で完全消滅。しかし多くの市民の願いから昨年再建されました。遺骨発掘は日韓共同ワークショップとして続けられ、国境を越えた市民の取り組みとなり、現在は東アジア共同ワークショップに発展して日中韓の交流が広がっています。20250830記

北鎮記念館(旭川市)2025年08月11日

北鎮記念館(旭川市)
2025年8月11日に旭川にある陸上自衛隊の北鎮記念館を見学しました。旭川は戦前、陸軍第七師団が置かれた軍都でした。元々屯田兵村から発展したところで、第2代北海道長官で第七師団長でもあった永山武四郎の功績を同館は偉人として称えています。師団司令部に勤務していた黒川幸夫氏は、終戦時、機密文書だった「師団歴史」を米国によるGHQの検閲を逃れ、自宅に持ち帰り保管していたので、1869年の開拓使設置時代から1945年まで重要事項が残されました。         
 旧陸軍第七師団と大東亜戦争の歴史、加藤隼戦闘隊を郷土の英雄として紹介し、先人の労苦と防人としての誇り、自衛隊の歴史を自衛官のガイドが説明しています。入口のショップはミリタリーグッズを販売しています。希望すれば38式歩兵銃を触る体験も可能です。自衛隊の広報宣伝を見据えた記念館なので、この記念館は、平和博物館ではなく、戦争を肯定し自国の軍隊を宣伝する軍事博物館の性格に近いと思いました。
 各地にある自衛隊の資料館、記念館は、アジア・大平洋戦争と捉えず、。戦前の閣議決定の文言を敢えて使って大東亜戦争と説明しています。大東亜戦争と表記する自衛隊は戦後の歴史学研究、文科省の学校教育カリキュラムを否定してるわけです。帝国陸軍の侵略戦を肯定し継承しようとする主張に他なりません。自衛隊は、大日本帝国憲法下での陸海軍と決別し日本国憲法のもとで存在している組織ですので、敗戦で310万の戦没者を生み出した帝国政府・旧日本軍の行為を反省して組織化されていなければなりません。歴史学の知見を軽んじ非科学的、非実証的な自衛隊の、このようは運営が心配になりました。20251004記

稚内市樺太記念館2025年08月08日

 2025年夏、稚内市樺太記念館を見学しました。フェリーターミナルや道の駅からも近いので便利です。この記念館は樺太(サハリン)40年の歩みと稚内とのつながりを紹介しています。日露戦争後、日本軍はサハリン全島を占領し、日本は樺太民政署を開設しました。ポーツマス条約で北緯50度以南の南樺太が日本領となり、1907年、樺太の豊原(ユジノサハリンスク)に樺太庁が設けられました(1946年廃止)。樺太は石炭の島となり、パルプ工場が多くつくられ鉱工業のまちとして発展します。1923年には稚内と樺太の大泊(コルサコフ)を結ぶ稚泊航路が開設されました。
 1945年8月9日、ソ連の侵攻で住民島外避難が始まります。1949年の調査では、稚内への引揚者5494人のうち樺太からの引揚者は4961人で、人口3万人をこえこの年に市制が敷かれたそうです。南樺太の町・敷香=しすか(ポロナイスク)生まれ、戦後活躍した横綱の大鵬(当時5歳)は、母と小笠原丸に乗船し小樽をめざしましたが、母が船酔いで急遽稚内で親子は下船します。そのあと小笠原丸は増毛沖(または留萌沖)でソ連の潜水艦に沈められました。

稚内市樺太記念館①

稚内市樺太記念館②






爆弾(肉弾)三勇士像(昭和7年建立)長野県飯田市2024年03月30日

爆弾(肉弾)三勇士像(昭和7年建立)長野県飯田市
 戦争の記憶を求めて、長野県飯田市に残されている爆弾(肉弾)三勇士像(昭和7年建立)を探しに行きました。風越山の登山口にある猿庫の泉(全国の茶人が水を求める有名な命水、茶会をやっている)の近く、山道を少し入った場所に見つけました。
 石像は九州の久留米の連隊に所属していた江下武二、北川丞、作江伊之助の3名です。1932年第一次上海事変で敵陣突破を試み戦死した彼らは、のち軍神とされ、新聞、映画などの芸術、教育を通して、軍国熱を煽る皇国臣民教育に利用されました。実際は敵陣突破して自爆したのではなく、失敗して爆死したとも云われています。
 全国各地に爆弾三勇士像がつくられましたが、残っているところは少ないので貴重な石像です。少国民教育の一貫として飯田市の国民学校生徒は、軍神・爆弾三勇士像の遥拝を強制されていたのでしょうか。戦前、この石像はどのように利用されていたのか気になりました。20240330記

飯田市平和祈念館2023年12月13日

飯田市平和祈念館
 長野県阿智村にある満蒙開拓平和記念館で開催された「平和のための博物館市民ネットワーク」の全国交流会に参加しました。大会終了後、昨年5月に開館した飯田市平和祈念館を見学する機会がありました。同館職員の方から説明をうけたあと「飯田市平和祈念館を考える会」事務局と、市民ネットワーク運営委員との会合にも参加させていただき、今後の運営と課題について交流しました。
 新しくできた祈念館は史資料を土台にした社会教育運動に関する展示や、関東軍の秘密部隊、731部隊に関する展示もあるため、個性的な祈念館になるのではと議論しました。飯田・下伊那地方は満州開拓移民や信濃教育会が中心となって送った満蒙開拓義勇軍の送出数がともに全国一位を占めていた地域でした。近くには満蒙開拓平和記念館があります。飯田、下伊那地方における満蒙開拓団と義勇軍の歴史を、これら2つの施設が日中両国の被害を展示することで戦争の実相に迫ることができるのではないかと話しました。飯田市は小さな都市ながらも歴史研究所をもっています。近現代史研究部門と連携して展示を更に充実してほしいと思います。20231211記